LOGIN叶翔の部屋を出た綾乃は、静かにドアを閉めると、その場で小さく息を吐いた。ホテルの廊下は深夜らしい静けさに包まれている。足元を照らす間接照明が柔らかな光を落とし、窓の外には都会の夜景が宝石のように広がっていた。先ほどまで息子の部屋にいたせいか、綾乃の胸の奥にはまだ温かな余韻が残っている。幼かった叶翔が、いつの間にか自分の人生を賭けて守りたいと思える女性に出会い、真剣に未来を考えるようになった。その事実が嬉しくて、どこか誇らしくて、同時に少しだけ寂しくもあった。そんなことを考えながら顔を上げた、その瞬間だった。「……あら」綾乃は思わず足を止めた。目の前に、まるで最初からそこにいたかのように玲司が立っていたのだ。壁にもたれかかるでもなく、ただ静かに綾乃を見つめている。その鋭い瞳の奥には、いつもの冷徹な経営者の顔ではなく、どこか柔らかな感情が宿っていた。綾乃は少し驚いたように瞬きをした。「玲司……起きていたの?」だが玲司は何も答えなかった。代わりに、一歩、また一歩と綾乃へ近づいてくる。綾乃が何か言おうとした次の瞬間――。ふわりと、温かな腕に包み込まれた。「……っ」玲司は何も言わないまま、綾乃を優しく、それでいて離したくないと言うように強く抱きしめていた。広い胸に顔を埋める形になった綾乃は、ふっと力を抜く。昔からそうだった。玲司は言葉が少ない。だが、そのぶん行動で全てを伝えてくる男だった。そして玲司は片手で綾乃を抱き寄せたまま、自分たちの部屋のドアを開けると、低く優しい声で言った。「お前は本当にいい女だな」その言葉に、綾乃は一瞬目を丸くしたあと、くすっと笑った。昔から何度も言われてきた言葉。けれど、何年経っても玲司の口から聞くたびに胸が熱くなる。綾乃もそっと玲司の体を抱きしめ返すと、穏やかな声で言った。「私たちの最愛の息子でしょ。幸せになってくれなくちゃ」その言葉を聞いた玲司は、しばらく綾乃の顔をじっと見つめていた。愛しいものを見るように。誇らしいものを見るように。やがて、小さく微笑む。「そうだな」そう言った次の瞬間――。玲司は綾乃の顎にそっと指を添え、ゆっくりと顔を近づけた。そして、綾乃の唇に深くキスをした。長年連れ添った夫婦とは思えないほど、熱く、優しく、深い口づけだった。綾乃は目を閉じながら
その日、叶翔は朝から櫻羅を連れて街へ出ていた。高層ビルが立ち並ぶ華やかなショッピングエリア。ブランドショップや高級ブティックが軒を連ねる通りを、叶翔たちは何軒も歩き回っていた。目的はただ一つ。櫻羅を、一条家へ正式に挨拶へ連れて行くためだった。その大切な日に、櫻羅が少しでも不安を感じないように。少しでも堂々と胸を張っていられるように。その思いだけで、叶翔は一切妥協せず、一軒一軒丁寧に店を回っていた。もちろん、こういう買い物に慣れている悠臣も一緒だ。むしろ、こういう場では悠臣の右に出る者はいないと言っていい。「いや、それだと少し可愛すぎるな……叔父さんたちに会うんだろ? もう少し上品さを出した方がいい」悠臣はラックに並ぶドレスを眺めながら、真剣な顔で言った。「じゃあ、これは?」櫻羅が遠慮がちに手に取ったワンピースを見て、悠臣はすぐに首を横に振る。「それも悪くないけど……うーん、櫻羅ならもっと映えるものがあるはず」「お前、いつからスタイリストになったんだよ」颯太が呆れながら言うと、悠臣は胸を張った。「センスの違いだよ」そんなやり取りをしながらも、叶翔は真剣だった。櫻羅が試着室から出てくるたびに、じっと見つめ、少しでも気になるところがあればすぐに首を振る。「それも似合うけど……もっといいのがある」「え、これでも?」「……ああ」櫻羅は少し困ったように笑ったが、その横顔はどこか嬉しそうでもあった。結局、ブティックを何軒も回り、フォーマルなワンピース、ヒール、バッグ、小物まで揃えた。だが、それで終わりではなかった。そのあともジュエリーショップへ向かい、ネックレスやピアスまで選び始めた叶翔に、さすがの櫻羅も驚いていた。「叶翔……こんなにいらないよ?」「必要だ」「でも……」「嫌な思いはさせたくないんだ」その一言に、櫻羅は何も言えなくなってしまった。気づけば、叶翔の両手にはブランドの紙袋がいくつも下がっていた。――そしてホテルへ戻ると、リビングでは綾乃が待っていた。時計を何度も見ていたのか、叶翔たちの姿を見つけるとほっとしたように微笑む。「どこへ行っていたの?夕食をどうしようか悩んでいたんだけど」そう言いながら叶翔の手にぶら下がった大量の紙袋を見た瞬間、綾乃の顔がふわりとほころぶ。「櫻羅ちゃんにプレゼントを選ん
五人は、街の中心部から少し離れた場所にあるカフェのテラスの丸いテーブル席に腰を下ろしていた。青く澄み渡った空からは、やわらかな陽射しが降り注ぎ、心地よい春の風がゆっくりと頬を撫でていく。街路樹の葉がさらさらと揺れ、遠くから聞こえてくる人々の笑い声や車の走る音さえも、どこか穏やかに感じられた。オープンテラスには色とりどりの花が飾られ、白いパラソルの下では多くの客たちが思い思いの時間を楽しんでいる。そんな開放的な空間の中で、櫻羅はまるで子供のように目を輝かせていた。どうやら、こんなふうに外のテラス席でゆっくりとお茶や食事を楽しむのは初めてらしい。きらきらとした瞳で辺りを見回し、行き交う人々や並べられた花々、テーブルの上に置かれたメニューやカトラリーにまで興味津々といった様子で視線を向けている。そんな櫻羅の姿を見ているだけで、こちらまで自然と頬が緩んでしまう。「櫻羅、なんでも好きなものを頼めよ、俺のおごりって言っただろ」颯太が胸を張りながら、得意げにそう言った。まるで自分が世界一頼れる男だとでも言いたげな表情に、櫻羅は思わずくすりと笑う。「ほんとにいいの?」そう尋ねる櫻羅に、颯太はさらに胸を張った。「当たり前だろ。遠慮すんなって」その様子は、まるで妹の面倒を見る兄のようでもあり、どこか微笑ましかった。一方で悠臣も、すっかり世話役モードに入っていた。メニューを手に取ると、櫻羅の隣に少し身を寄せながら、料理の説明を始める。「これはこういう料理で……」写真付きのメニューを指差しながら、一つ一つ丁寧に説明していく。「こっちは少しスパイスが効いてるし、これはクリーム系。櫻羅、苦手なものとかある?」悠臣の質問に、櫻羅は少し考えるように首を傾げたあと、小さく首を横に振った。「特にないかな……全部おいしそう」「じゃあ悩むなぁ」悠臣が本気で悩み始めると、颯太が横から割って入る。「だから好きなの頼めって言ってんだろ!」「お前が決めることじゃないだろ」そんな二人のやり取りに、櫻羅は声を立てて笑った。その光景を少し離れた席から静かに見つめているのが叶翔だった。目を細めながら、何も言わず櫻羅を見つめる。その瞳には、言葉にしなくても分かるほどの愛情が溢れかえっているようだった。楽しそうに笑う櫻羅。無邪気にはしゃぐ櫻羅。その一つ一つの表情
一条邸の広いリビングには、朝から重苦しい空気が流れていた。磨き上げられた大理石の床、高価な調度品、壁に飾られた絵画――どこを見ても一流の品で揃えられているはずなのに、今この空間には、そんな豪奢さを打ち消してしまうほどの険悪な空気が漂っている。ソファに深く腰を下ろしていた一条竜星は、顔の片側を大きく腫らしながら、これ以上ないほど不機嫌そうな表情を浮かべていた。もともと愛想のない顔つきだったが、今はそこへ青あざと腫れが加わり、仏頂面がさらにひどく見える。昨日、九条玲司に容赦なく殴られた頬はまだ熱を持ち、少し口を動かすだけでも痛みが走る。それでも竜星の苛立ちは収まらず、目の前にいる沙耶へ怒鳴るように文句をぶつけていた。「櫻羅のせいで、レオン・クロフォードには逃げられるし、結局、九条玲司が得をしただけじゃないか!!」怒声がリビングに響く。しかし、沙耶はそんな竜星をちらりと横目で見ただけだった。慌てる様子も、怯える様子もない。ただ、深いため息を一つ落とした。そのため息には呆れと失望がたっぷりと含まれていた。「あなた、レオン・クロフォードにすっかり騙されて、財産のほとんどを持っていかれたのを知ってもまだレオンを頼ろうとしているの? あなた、バカなの?」静かな声だった。けれど、その一言は竜星の神経を逆撫でするには十分だった。「……っ!」竜星のこめかみに血管が浮かぶ。昔からそうだった。沙耶はいつだってこうだ。どれだけ家が危機に陥ろうと、自分だけはお嬢様然とした態度を崩さず、まるで他人事のように上から物を言う。若いころは、そんな気の強さに惹かれたこともあった。美しく、気高く、誰にも媚びないその姿に夢中になった。だが――。櫻羅を身ごもってからというもの、竜星の中で何かが決定的に変わってしまった。愛情だったものは疑念に変わり、やがて嫉妬と執着へと姿を変えていった。気づけば、もう沙耶を愛せなくなっていた。竜星は怒りに歪んだ顔で、沙耶を睨みつける。「お前は自分の娘の父親が得をしていい気になっているみたいだが、これまでお前にいい思いをさせてきたのは誰だと思っているんだ? 忘れたのか、 一度離婚してお前が日本に帰った時、玲司にコテンパンにやられたんだろう? 南條の家だって…」そこまで言った、その瞬間だった。沙耶がゆっくりと立ち上がる。
櫻羅の目が大きく見開かれる。まるで、今自分が聞いた言葉の意味をすぐには理解できなかったかのように、透き通った瞳が小さく揺れていた。いつもなら強気な言葉を返してくるはずの彼女が、ただ呆然と叶翔を見つめている。そんな反応すら、叶翔には新鮮だった。しばらくの沈黙のあと、櫻羅の唇がかすかに震える。「え?」か細く漏れたその声には、驚きと戸惑いが混じっていた。叶翔はそんな櫻羅をまっすぐ見つめたまま、逃げることなく言葉を続ける。「お前の気持ちも考えずに、勝手なこと言った」低く落ち着いた声。だが、その声の奥には、確かな後悔が滲んでいた。昨夜、自分は正しいことを言っているつもりだった。櫻羅を守るためだと、本気で思っていた。けれど、それは自分たちの都合を押しつけていただけだったのかもしれない。そう思えば思うほど、胸の奥が鈍く痛んだ。叶翔は櫻羅から一度も視線を逸らさず、そのまま続けた。「お前が……親父さんとどうしたいのか、本当はちゃんと聞くべきだった」その言葉を聞いた瞬間、櫻羅の表情が少しずつ揺らいでいく。驚き、戸惑い、嬉しさ、そして隠していた感情が、少しずつその瞳の奥に浮かんでは消えていった。しばらく黙っていた櫻羅は、やがて小さく肩の力を抜き、ふっと笑った。「……綾乃さんに怒られたの?」少しだけからかうような口調。けれど、その声にはどこか安堵したような響きも混じっていた。叶翔はほんのわずかに口元を緩める。「……半分はな」ぶっきらぼうな返事。それでも、いつもの冷たさはなく、どこか柔らかかった。その変化に気づいたのか、櫻羅もふっと笑みをこぼす。部屋の中に流れていた重たい空気が、ほんの少しだけ和らいだ。だが——。次の瞬間だった。櫻羅の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。笑っていたはずの表情が、少しずつ崩れていく。「私ね……」ぽつりと零れた声は、今にも消えてしまいそうなくらい小さかった。櫻羅は叶翔から視線を外し、窓の外へと目を向ける。朝の柔らかな光が横顔を照らしている。けれど、その横顔はどこかひどく寂しそうだった。「ずっと、嫌いだと思ってたの」その言葉に、叶翔は何も言わなかった。何も言わず、ただ静かに櫻羅の言葉を受け止める。今は下手な慰めも、励ましも必要ない。彼女が本当の気持ちを口にしてくれるなら、それを最後まで聞くべき
翌朝、叶翔がリビングへ足を踏み入れると、すでに家の中には穏やかな朝の空気が流れていた。大きな窓から差し込む柔らかな陽射しがフローリングを照らし、キッチンからは焼きたてのトーストとコーヒーの香ばしい匂いが漂ってくる。いつもなら朝早くから動き回っている玲司や圭、颯太、悠臣の姿が見当たらないことに、叶翔は小さく眉をひそめた。リビングには瑛士と綾乃の二人だけがいて、ゆったりと朝食を取っている。「おはよう」綾乃が優しく声を掛けると、叶翔も軽く頷きながらソファのほうへ歩いていく。「親父たちは?」短くそう尋ねると、綾乃はコーヒーカップをテーブルへ置きながら答えた。「ノヴァ・テクノロジーズに行ったわよ」「そうか……」叶翔は小さく呟き、そのままソファへ腰を下ろした。綾乃は立ち上がり、キッチンへ向かいながら振り返る。「叶翔、朝ご飯は?」「コーヒーだけでいい」そう答えながら、叶翔の視線は自然とリビングの奥にある一つの扉へ向いていた。櫻羅の部屋だ。綾乃はマグカップにコーヒーを注ぎ、それを持って叶翔のもとへ歩いてくる。「櫻羅ちゃんはまだ見てないわね。物音がしていたから起きてはいると思うけど……叶翔?」叶翔は綾乃からコーヒーを受け取ると、一口だけ口をつけた。熱い苦味が喉を通っていく。だが、その味を感じる余裕もないまま、綾乃の声に顔を上げた。「昨夜の話だけど……玲司や叶翔の考えていることは十分わかっているんだけど、櫻羅ちゃんの気持ちも少しは考えてあげなさいね」その言葉に、叶翔の動きが止まる。一瞬だけ母の顔を見つめ、それから少しだけ視線を逸らした。「櫻羅の気持ちって?」綾乃は小さくため息をつくと、叶翔の向かい側のソファへ腰を下ろした。「いくら世間から悪い人だと言われても、自分の親と縁を切りたいと、本気で考えてるとは思えないわ。しかも、今までは竜星から本物の親子じゃないと言われていたのに、DNA鑑定で本当の縁が分かったところなのよ。それを父親に突き付けて、一度でも抱きしめて欲しいと思っているのかもしれないわよ。たとえ、あなたたちの前で強がっていたとしても、ね」その一言一言が、叶翔の胸の奥へ静かに突き刺さっていく。脳裏に浮かんだのは、先日の櫻羅の表情だった。笑っていたはずなのに、その瞳の奥にどこか寂しさが滲んでいた、あの微笑み。たしかに、本気で縁を切り
和真と別れた帰り道。夜風は思いのほかやわらかく、ビルの谷間を抜けていく空気さえ、どこか軽やかに感じられた。綾乃は、自分でも驚くほど足取りが軽くなっていることに気づいた。ヒールの音が、いつもより高く、規則正しく響いている。(……気を抜きすぎね)小さく息を吐き、わざと歩幅を落とす。だが、胸の奥に広がる解放感までは抑えきれなかった。頭の中では、彼の言葉が何度も反芻されていた。――「神崎グループとして、裏から情報を集めることもできる」表で動けない今の自分にとって、それは、あまりにも都合のいい申し出だった。九条ホールディングスの立場上、彼女は不用意に動けない。一歩間違えば、政治的
九条ホールディングス本社。最上階の大会議室には、異様な緊張が漂っていた。取締役全員。主要株主。法務、内部監査、情報セキュリティ責任者。玲司は、会議の中央席に座り、資料も見ずに静かに口を開いた。「本日は、九条ホールディングスに対して行われた組織的な信用毀損行為について、事実確認と、対応方針を決定するための場です」スクリーンが点灯する。最初に映し出されたのは――音声データの解析結果だった。「こちらは、外部に流出した“九条に不正献金を示唆する音声”です」専門部署の責任者が説明を引き継ぐ。「改ざんは、非常に高度です。単なる切り貼りではありません」波形が拡大される。「実際には
九条ホールディングス本社。役員フロアの一室で、玲司は無言のまま音声を聞いていた。――『資金は、海外口座を通せ』――『表の契約書は、後で差し替えればいい』低く、落ち着いた声。自分のものだ。「……もう一度」玲司の指示で、音声は巻き戻される。法務顧問、内部監査責任者、情報セキュリティ部門の責任者。誰も、口を挟まない。三度目の再生が終わったところで、玲司はようやく口を開いた。「この音声、違和感がある」「違和感、ですか?」法務顧問が慎重に言葉を選ぶ。「内容自体は、確かに問題がありますが……声紋解析でも、ご本人と高い一致率が出ています」「声の“質”じゃない」玲司は、静
異変は、朝の定例報告から始まった。神崎財閥本社――高層ビルの上層階、いつもと同じ時刻、同じ顔ぶれ。役員たちはコーヒーを手に、形式的な数字の確認をするだけのはずだった。だが、経営企画部の若い社員が、資料を手に硬直したまま立っている。視線は泳ぎ、唇はわずかに震えていた。「……九条ホールディングスからの契約解除通知です」その一言で、会議室の空気が変わった。ひとつではない。資料をめくるたびに、ページの端に並ぶ「解除」「終了」「見直し」の文字。資本提携、共同開発、物流ライン、海外ファンドを介した取引――一斉に、しかも例外なく。理由はどれも同じ文言だった。《経営判断による契約見直